下田上之町と下田下之町との間を流れる粟原川に架かる跡見橋。名前の由来は神武東征の折、この場所で後ろを見返したからと伝えられている。 天武天皇8年(680)8月11日、天皇は初瀬へ行幸され、トドロキノフチ(跡見橋の下を流れる粟原川の急流を表す)の上で宴会をされた。これより先、親王諸卿に詔して「乗馬の外に良馬を設けて、召さむままに出せ」と仰せになった。そして初瀬からお帰りの折、跡見の驛家の道のほとりにて、これらの良馬をして競走させ、みそなわした。と『日本書紀』にしるされている。また、『大和初瀬寺(保田與重郎著)』には、跡見という地名は神武天皇の鳥見山一帯の地である。天武天皇の御時、宗像神社を勧請されたのも、この鳥見山の山麓、大伴家の跡見の田荘もここだった。そして、天武天皇が競馬をご覧になったのもこの跡見の宿場の方だった。としるされている。 近代競馬がわが国に入ったのは文久2年横浜で外国人により行われたのが始まりというが、くらべ馬といった呼び方で、もっと古くから我が国でも行われていたのだ。 先の日本書紀の記事は文献にしるされた我が国での競馬の最初の貴重な記録というべきであろう。 |