桜井茶臼山古墳       再調査 1954年撮影桜井茶臼山古墳

昭和24年最初の発掘から60年後の再調査
今回は、埋め戻された埋葬施設の詳細の調査と、木棺を取り出して保存処置を行うことを目的に、再発掘されました。竪穴式石室が60年前と同じ姿を保っていることを確認し、天井石の一部を取り除いて木棺を取り出しました。
【左】石室南半と木棺(北から) ・ 【右】墳丘と調査区
石室南半と木棺墳丘と調査区
調査を終えて
埋葬の為の施設は、後円部の中央に南北約11m・東西約4.8m・深さ約2.9mの長方形の墓壙を堀り、竪穴式石室を造って木棺を納め、その後に石室を埋め立てて方形壇を築き、丸太垣をめぐらせたものでした。

墓壙の南側は掘り下げられ作業道として前方部へと続いています。石室形成の為の石材や木棺がここから運ばれたと考えられます。

竪穴式石室は、南北長6.75m・北端幅1.27m・高さ1.60mで水銀朱を塗布された石材に囲まれたいました。基底は南北に浅い溝状になっており、板石を2〜3重敷き詰め棺床土を置き、その上に木棺を安置していました。

木棺は、原形を失っていましたが、遺存した棺身の底部は、長さ4.89m・幅75p・最大厚27pの長大なものでした。
【左】墓壙と石室(南から) ・ 【中】石室(北から) ・ 【右】天井石と控え積み石材(北から)
墓壙と石室石室天上石と積み石
副葬品としては、玉杖をはじめ、玉製品や、鉄製・青銅製の武器のほかに、国内最長の長さ8pのガラス製管玉や、国内最多となる、81面の銅鏡の破片が出土しました。
埋葬後、全面に水銀朱を塗布した12個の天井石を懸架して石室は閉じられました。天井石は、長側面を平坦に加工して隣り合う石と並び良くしてあります。最大のものは長さ2.75m・幅76p・厚さ27p、推定重量は約1.5tになります。さらに天井石はベンガラを練りこみ赤色にした粘土に被われ、粘土の上には直径5〜7pの円形の窪みがありました。これは、先端の丸い棒でつき固めた跡だと考えられます。
被覆粘土とつき棒のあと(北から)
被覆粘土と突き棒の跡
その後、墓壙の上部を埋め、さらに周囲より高く土を盛り上げて、方形の壇を築いています。
方形壇は、南北長11.7m・東西幅9.2m・高さ1m未満と推測されます。
壇の上面は、板石と円礫化粧し、周りに二重口縁壷が並んでいたようです。
方形壇の裾に、幅・深さ共に1.4mの溝(布掘り掘り方)が掘られ、その中心に直径30pの柱が隙間無く立ち並べられていました。布堀の外周は南北長13.8m・東西幅11.3m、これらにより柱の総数は約150本と推定されます。
また、柱は1.3m程埋め込まれており、地表にはその倍ほどの高さがあったと考えられます。この丸太垣が、石室とその上部の方形壇を外界から保護していました。
【左】東柱列と土器(北から) ・ 【右】南柱列・布堀り掘り方・作業道(北西から)
東柱列と土器  
丸太垣復元図
丸太垣復元図
81面の銅鏡
石室や周辺の土から、一つの古墳の副葬品の鏡としては、国内で最多となる13種81面の銅鏡の破片331点が出土しました。60年前の発掘調査時の出土品と個人蔵の破片も合わせると384点に及びます。
度重なる盗掘により、副葬品の破損が激しく、完全に復元できるものは無く、種類の判別も付かないものもあります。
また、盗掘の際、大部分が持ち去られた可能性を考えると、総数はさらに増えると考えられます。
埋葬の際には、石室が、たくさんの鏡で埋め尽くされていた様子がうかがえます。

出土した約2p大の破片の中に「是」の一文字が確認されました。3D計測により、この「是」の文字は、蟹沢古墳(群馬県高崎市)で見つかった、「正始元年陳是作」という銘文入りの鏡の「是」の文字と、ぴたりと一致しました。
『正始元年(240年)の鏡は、魏志倭人伝に「中国皇帝が(銅鏡などを汝(=卑弥呼)の国中の人に示せ)とつたえた。」と記されているように、卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を賜った内の1枚と考えられます。卑弥呼は、鏡を権威の象徴として地方勢力に配布し、求心力を高めたと言われています。この地に眠る人物もまた、大王であったことは間違いなく、銅鏡は卑弥呼から直接手渡されたかもしれません。また、被葬者は、倭王か現在の副総理格の人物だったのでは』と語るのは、福永伸哉・大阪大教授。邪馬台国の所在地では?と注目される、纒向遺跡の近隣ということもあり、そうであってほしいと願うのは、地元ひいきな意見でしょうか?

今回の桜井茶臼山古墳発掘調査により、出土したわずか2pの銅鏡の破片が、今後の古墳時代の研究や、大和王権と邪馬台国の関係、邪馬台国論争に影響を及ぼすことになると思われます。
それにしても、私達が暮らすこの地に、そんな大王がいたなんて。いったいどのような人物だったのでしょうか?何れにしても、古代磐余の地と呼ばれたこの土地に、200mの巨大古墳、当時金より貴重であった水銀朱を200kも使用した石室、豪華で大量の副葬品、石室を守る丸太垣等々、圧倒的権力の持ち主であったことは間違いないでしょう。
朱色に染まった神秘の地底の一欠片は、私達に何を語ってくれるのか期待しつつ、我が町外山区に伝わる壮大な歴史と誇りに改めて気づかせてくれた桜井茶臼山古墳を見守っていきたいと思います。

鏡の破片は平成22年1月3日〜31日まで奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)にて展示されています。

                                     資料:奈良県立橿原考古学研究所許可済
                                         読売新聞参考

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